太宰治さんは『グッド・バイ』や『人間失格』など数多くの作品を残した作家です。彼が自殺をしたことは有名ですが、実際どのような死因で亡くなったのでしょうか?そして彼の人生に大きく関わった女性たちとの関係、遺書の存在、彼の人生年表までをまとめます。
太宰治の死因は入水自殺による溺死?
太宰治さんの死因は入水自殺による溺死と言われています。
1948年の6月13日の深夜に東京の玉川へ山崎富栄さんとともに投身。
その7日後に遺体で発見されました。
ただし、死因については、「実は絞殺だったのではないか」「山崎富栄に殺されたのでは?」と言った説があります。
はっきりとした死因に関しては、当時の警察が発表しなかったためさまざまな説が出回っているようです。
まずは、太宰治さんが家出した日から遺体発見までの様子や遺体発見時の状態、自殺の原因、遺書の内容に関して見ていきましょう。
太宰治家出〜遺体発見までの様子
- 1948年6月6日
太宰治さんが正妻の前から消えたのは自殺当日の1948年6月13日ではなく、その数日前である6月6日のことでした。
太宰治さんは、朝いつものように外出したものの自宅へは帰らず、仕事部屋としても使用していた山崎富栄さんの部屋で過ごしました。
- 1948年6月13日
13日の午後11:30~14日の午前4:00頃に山崎富栄さんの部屋を出て、玉川上水にて川へ投身しました。
- 1948年6月14日
お昼頃に遺書が発見されたため、捜索が開始されました。
- 1948年6月15日
玉川上水付近で山崎富栄さんの自宅にあったとされる、小皿や青い透明のガラスビン、水が入ったビール小ビンが発見されました。
その近くの地面は下駄で抉られた跡があったと言います。
- 1948年6月19日
ふたりは、身投げした現場と思われる1km半流された下流にて発見されました。この日は太宰治さん39歳の誕生日でもありました。
発見された時の状態
発見された時、ふたりは川底の杭に引っかかった状態でした。
太宰治さんの脇と山崎富栄さんが紐で繋がれた状態だったとのことです。
遺体が見つかった時の服装は、自宅を出た時と同じでワイシャツにボタン姿、山崎富栄さんは黒のツーピース姿でした。
自殺の原因
太宰治さんの自殺の原因は、結核による体調の悪化と小説家として作品を生み出すのが苦痛になったことが挙げられます。
亡くなる年の1月には喀血が続くようになっており、かなり具合の悪いところまで来ていたと言えます。
妻に宛てた遺書
太宰治さんが小説を書くのが「嫌になった」と明かしたのは、妻に宛てた遺書の中でした。
小説を書くのが嫌になった理由に「みんないやしい欲張りばかり」とあったため、業界そのものに嫌気がさしたの可能性もありますが、量り知ることはできません。
また、遺書には正妻を愛する気持ちを記していました。
「美知様、誰よりもお前を愛していました。」や「あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。」と記されています。
「違う女性と心中しておきながら…。」と思うかもしれませんが、太宰治さんが心から愛していたのは、正妻の津島美知子なのでしょう。
太宰治の死因は溺死ではない?首を絞められた?
太宰治さんの遺体が発見された当時の流れを記載しましたが、死因に関して本当のところはどうだったのでしょうか?
まず「首を絞められた」という説について詳しく解説します。
首を絞められたことによる他殺説を取り上げているのは、大学教授である三枝康高氏です。
三枝康高氏は、「山崎富栄さんが太宰治さんの首を紐で絞めており、絞殺の跡が残っている。警察はこれを発表しなかったが認定している」としています。
また、同教授は、山崎富栄さんがパビナールで太宰治さんをフラフラな状態にし、首を絞めたものの殺害しきれず体を紐で括り入水心中したと考えています。
ただし、この話に根拠はありません。
とくに絞殺の跡に関しては、太宰治さんの3回目の自殺未遂(首吊り自殺)の痕の可能性があります。
そのほかにも青酸カリを飲ませたのちに、心中したとの説があります。
青酸カリでの殺害説は、「青酸カリで山崎富栄さんに脅されている」という太宰治さんの生前の言葉や入水現場の近くに小瓶が落ちていたことが原因に挙げられます。
当時玉川上水が水道水として使用されたこともあり、水道局が水質を調査。
遺体からも水からも毒物が検出されなかったため、この説は否定されています。
太宰治は自殺未遂を繰り返していた?
太宰治さんは、山崎富栄と心中するという形で人生の幕を下ろしました。
太宰治さんがそれまでに何度も自殺未遂を繰り返していることは有名です。
ここでは、計4回の自殺未遂の内容を解説します。
1回目の自殺未遂
太宰治さん1回目の自殺未遂は、1929年12月10日、20歳の時でした。
高校3年生2学期末の試験前夜、下宿先でカルモチンという薬物を嚥下し、翌日夕方まで昏睡状態に。
自殺した理由については、金持ちの家庭に生まれた生い立ちと、自身の思想との食い違いに思い悩んでいたことを挙げています。
しかし試験前夜ということもあり、試験の失敗による成績の低下を危惧したものだったのではと言われています。
また、自殺を図ったのちの療養中に左翼活動家(※太宰治さんも左翼活動家だった)が一斉に検挙されているため、これを避けるための自殺未遂とも考えられています。
2回目の自殺未遂
太宰治さん2回目の自殺未遂は1930年11月28日、21歳の頃でした。
当時最初の妻である小山初代さんとの結婚の話が原因で、実家の島津家から分家除外をされたばかりでした。
実際のところ結婚より左翼活動が原因とされており、太宰治さんの分家除外は兄である文治さんの自己保身が目的でした。
これらが原因となり、行きつけの銀座のバーホリウッドのホステス・田部あつみ(田部 シメ子)さんと鎌倉で服薬による心中未遂をしています。
このとき田部あつみさんは亡くなり、太宰治さんだけが生き残りました。
3回目の自殺未遂
太宰治さん3回目の自殺未遂は、1935年3月16日、25歳の頃でした。
この頃太宰治さんは東京帝国大学(現東京大学)の5年生になっており、仕送り打ち切りの可能性を考え、都新聞社の採用試験を受けていました。
しかしこの採用試験で不採用となり、鎌倉八幡宮の裏山にて首吊り自殺を図っています。
4回目の自殺未遂
太宰治さん4回目の自殺未遂は、1937年3月20日、27歳の頃でした。
3回目の自殺未遂の約1ヶ月後、盲腸の手術を受けるも腹膜炎を併発。入院中にパビナールという鎮痛剤を打ち、依存症に陥っていました。
そして、そのパビナール中毒療養のため武蔵野病院に再度入院。
一人目の妻である小山初代さんが不貞をはたらいたことに起因して、妻と心中自殺をはかります。
場所は谷川岳の山麓、カルモチンによる自殺未遂でした。
その後6月に小山初代さんとは離別しています。
太宰治の女性関係|人生に関わった3人の女性
太宰治さんは何度も自殺未遂をしていますが、そのほとんどが女性との心中でした。
太宰治さんを語る上で欠かせないのが女性関係です。
ここでは、太宰治さんと関わりの深い3人の女性をご紹介します。
津島美知子
太宰治さんに大きく関わった女性1人目は、正妻の津島美知子(旧姓:石原)さんです。
太宰治さんは、1人目の妻である小山初代と離婚した翌年に美知子さんとお見合いし、さらにその翌年の1月8日に結婚式を挙げました。
太宰治さんは結婚からしばらくののち、東京府の北多摩郡三鷹村に移り住み、精神的に安定した暮らしに入ります。当時『富嶽百景』や『走れメロス』などの有名な作品を生み出しました。
美知子さんは結婚前、山梨県立都留高等女学校にて地理と歴史を教える教師をしており、同時にその女学校の寮の舎監も勤めていました。
結婚後は家庭に入り、夫を支えつつ子どもを3人出産しています。
美知子さんは太宰治さんの『薄明』や『親友交歓』、『女神』などの小説に登場、『十二月八日』には名前も登場しています。
太田静子
太宰治さんの女性関係でよく名前が挙げられる人物2人目は、太田静子さんです。彼女は太宰治さんが、作家として名を馳せ始めた32歳の頃に知り合った女性です。
太田静子さんは歌手でした。
そんな太田静子さんが前夫と離婚直後に太宰治さんの小説を読み、「小説を書きたいから指導をしてほしい」と手紙を送ったことが出会いのきっかけとなりました。
そして恋に落ち妻の目を盗みつつ、共に時を過ごしています。
ちなみに、小説の指導内容は「日記を書くと良い」というもので、この日記が太宰治さんののちの代表作の一つ『斜陽』誕生きっかけにもなったと言われています。
戦時中は疎開で離れ離れになっていたものの、戦後に再開。
しかし、この時太宰治さんは「小説の題材のために、日記を提供してほしい」と告げています。
この日記が『斜陽』のモデルとなるのですが、太田静子さんは「小説のために利用されたのでは…?」と考えていたようです。
太田静子さんは太宰治さんの子を出産しており認知もしていたとのことなので、そこに愛はあったと言えるのではないでしょうか。
山崎富栄
太宰治さんと深い女性関係にあった山崎富栄さんは、先述してきたとおり太宰と心中をした女性です。
彼女は、戦後まもない1947年3月に屋台で太宰治さんと出会っています。ちょうど太宰治さんが太田静子さんから日記を借りた頃と一致します。
山崎富栄さんは東京で美容師をしており、父親は東京婦人美髪美容学校の創始者である山崎晴弘という人物です。
彼女は太宰治さんから「死ぬ気で僕と恋してみないか?」と口説かれ恋に落ち、深く愛するようになりました。
太宰治さんはこの頃結核を患っており、喀血するようになったものの山崎富栄さんは献身的に支えています。
うつる病気でありながら、太宰治さんが喀血しても慣れた様子で世話をしていたようです。
自身の貯金を太宰のために使うなどまでしていたとか。
当時不治の病だった結核を患っている人とともに過ごしているということもあり、全てが覚悟の上だったのでしょう。
太宰治の人生年表
年表 | 年齢・出来事 | 代表作 |
明治42年 (1909) |
0歳 父・源右衛門(青森県議会議員)、母・たねの裕福な家庭に生まれる |
– |
大正5年 (1916) |
7歳 金木第一尋常小学校へ入学 非凡な作文力で「開校以来の秀才」と呼ばれる |
– |
大正11年 (1922) |
13歳 小学校を6年間全甲首席で卒業 学力補充のために、四ヵ村組合立明治高等小学校へ通学(父・源右衛門の意向) 成績は秀でていたものの、いたずらっ子で小学校時代より評価が下がる |
– |
大正12年 (1923年) |
14歳 父が死去 県立青森中学校(現:青森高等学校)へ入学 優秀な成績で級長を勤める いたずらっ子で茶目っ気のある性格は変わらずクラスの人気者に 文学に興味を持ち始め、芥川龍之介、菊池寛などを好んで読む 井伏鱒二の作品『幽閉(のちの山椒魚)』に出会う |
– |
大正14年 (1925) |
16歳 作家を志すようになる |
初の作品(習作)『最後の太閤』を発表 |
昭和2年 (1927) |
18歳 官立弘前高等学校文科甲類へ入学 尊敬する芥川龍之介が自殺 これをきっかけに優等生としての人生が一変し始める 花街文化に興味を示すようになり、のちの1人目の妻・小山初代に出会う |
同人雑誌『蜃気楼』を休刊 |
昭和3年 (1928) |
19歳 花街通いなどが原因で成績が低下し始める 新聞部員となり、左翼活動にのめり込む |
同人雑誌『細胞文芸』を刊行 『無間奈落』を辻島衆二名義で連載予定だったが、生家の津島家から反対を受け1話で終了 |
昭和4年 (1929) |
20歳 世間的に学生運動や左翼運動が激化 太宰の属する新聞部が主導となり同盟休校を行う 12月に最初の自殺未遂 |
同盟休校の様子を描いた私小説『学生群』を執筆 |
昭和5年 (1930) |
21歳 1度目の自殺未遂 小山初代と結婚 井伏鱒二に出会い弟子入り |
|
昭和7年 (1932) |
23歳 共産党のシンパ活動からの足抜け(左翼活動から離脱) |
処女作『思い出』を執筆 |
昭和8年 (1933) |
24歳 ペンネームを「太宰治」に |
|
昭和9年 (1934) |
25歳 中原中也らと同人誌を刊行するも、不仲により創刊号のみで廃刊に |
同人誌『青い花』にて『ロマネスク』を執筆 |
昭和10年 (1935) |
26歳 3度目の自殺未遂 急性盲腸炎で手術するも腹膜炎を併発 回復するもパビナール中毒に 第1回芥川賞の候補に |
『文藝』にて『逆行』を発表 |
昭和12年 (1937) |
27歳 パビナール中毒が悪化し入院 1度は退院するも強制入院ののち根治 |
|
昭和13年 (1938) |
28歳 妻・小山初代の浮気が発覚 4度目の自殺未遂 妻と離別 |
|
昭和15年 (1940) |
29歳 正妻・津島美知子(旧姓:石原)とお見合いし結婚 作風に変化が現れる |
短編『女生徒』 |
昭和16年 (1941) |
30歳 師匠・井伏鱒二の自宅で簡素的な結婚式を挙げる |
『富獄百景』 |
昭和17年 (1942) |
31歳 長女が誕生 太田静子と出会う 肺湿潤で徴用免除 |
『駆込み訴へ』 『走れメロス』 |
昭和18年 (1943) |
32歳 母・たねが危篤により帰郷 義絶を解消された |
|
昭和19年 (1944年) |
35歳 長男が誕生 |
|
昭和20年 (1945年) |
36歳 東京から疎開し各地を転々とする |
『河北新報』にて『パンドラの匣』連載開始 |
昭和21年 (1946) |
37歳 東京へ戻る |
|
昭和22年 (1947) |
38歳 太田静子と再会し日記を借りる 山崎富栄と出会う 次女の誕生 太田静子との間に子ども生まれる |
『新潮』にて『斜陽』を連載 |
昭和23年 (1948) |
38歳 肺結核が悪化 6月山崎富栄と心中し死去 |
『人間失格』 『桜桃』 『グッド・バイ』(未完) |
太宰治のプロフィール
- 太宰治(だざい おさむ)
- 本名:津島修治(つしま しゅうじ)
- 生年月日:1909年6月19日
- 出身地:青森県北津軽郡金木村
- 没年: 1948年6月13日(38歳)
太宰治にまつわるおすすめ映画作品
太宰治さんは歩んできた人生を映画化されることが多くあります。また、太宰治さんの作品が映画化されているパターンももちろんあります。
ここでは、太宰治さんにまつわる映画作品を3つご紹介します。
人間失格
太宰治さんが1948年に世に送り出した『人間失格』を映画化した作品です。
太宰治さん生前最後の完結作でもあり、自伝的な小説とも言われています。
今回ご紹介するのは、2010年に生田斗真さん主演で放映された『人間失格』です。
他人の前ではピエロのように道化を装いながら生きる男性が主人公で、他人に本音をさらけ出せないが故に恐怖で堕落していく姿を描いています。
人間失格 太宰治と3人の女たち
太宰治さんにまつわる映画2つ目は、『人間失格 太宰治と3人の女たち』です。
こちらは2019年9月に放映されており、主演は小栗旬さん、3人の女たちは宮沢りえさん、沢口エリカさん、二階堂ふみさんが演じています。
先ほどご紹介した生田斗真さん主演の『人間失格』とは異なり、太宰治さん本人の人生を3人の女性との関係とともに描いた作品です。
監督は蜷川実花さんなので、映像美も期待できる作品です。
グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~
太宰治さんにまつわる映画、続いては『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』です。こちらは太宰治さんの未完の遺作『グッド・バイ』を映画化したものです。
ただし、原作と異なり喜劇として楽しめる作品となっています。
主演は大泉洋さん、相手役は小池栄子さんが演じています。
以下が作品のあらすじです。
戦後の混乱から復興へ向かう昭和のニッポン。何人もの愛人を抱える文芸雑誌の編集長に就く田島周二は、愛人たちとの別れを決心したものの優柔不断なため別れることができない。田島は愛人たちと別れるため、金にがめつい担ぎ屋の永井キヌ子に、女房を演じてくれと頼み込むことに。田島は女のために、キヌ子は金のために、“嘘(にせ)夫婦”としての企みがはじまる…。
まとめ
今回は太宰治さんの死因、自殺の理由や妻に向けた遺書についてなどを解説しました。
小学生時代から成績優秀でいたずらっ子な一面を持った彼が変化し始めたのは、尊敬する芥川龍之介の自殺でした。
尊敬する人物の死が、彼の今までの死生観を変えてしまったのかもしれません。
彼は亡くなってしまったものの、作品は残り続けます。
太宰治さんの死因が気になる方は、彼が生み出してきた作品もぜひ読んでみましょう。
彼の人生への考え方が、わかるかもしれません。